vol 3「私とピアノの出会い」

 カリッ!とした歯ごたえが嬉しい「おこうこ」。
 私の生まれ育った河内長野では、そこかしこに大根を干す風景がありました。
 「おこうこ」はふるさとの懐かしい風景と結びついた思い出の味です。
 歌声喫茶のお客様のミカド様が、この前たくさんの大根を持って来てくださいました。良〜く干したあと、妹が用意した糠床に漬け込んでみました。
漬け上がった「おこうこ」をカリッとかじる。懐かしいふるさと、懐かしい風景がよみがえり、とっても感激いたしました。
食べ物ひとつでこんなに感動出来る自分が、少し不思議でもありましたが…。
 さて、ここから本題です。いまや私の人生とは切り離すコトが出来なくなっているピアノとの出会いについて、少しお話しいたします。
 私とピアノの出会いはかなり遅く、大谷中学の3年になろうとする冬のコトだったと思います。私たち一家は、河内長野の家を引き払い、母方の祖父が住んでいた大阪市生野区の長屋に引越しました。昭和25年(1950年)、私が10歳のときでした。
 引越したあと、父が私のために天満の楽器店でアコーディオンを見つけ、買ってきてくれました。
 「ナリコは身体が大きいからアコーディオンが向いている」(※当時私は、上背はないけれどかなり太っていたのです。)と父は決めつけ、その楽器店の二階にあるアコーディオン教室に通うコトになったのです。
 アコーディオンを唐草模様の風呂敷に包み、それを提げて城東線(今の環状線)に乗って通いました。それが私と楽器との最初の出会いでした。
 親はかなり無理をして、私を私立中学に入れてくれました。阿倍野の大谷中学校でした。中学2年も終わりかけた冬の日、放課後たまたま講堂の近くを通ると、あまり上手ではない、たどたどしいピアノの音色が
聞えてきました。太田さだこ先生という先生が、放課後に生徒に個人レッスンをしていたのです。
 私は帰って親に相談するのではなく、いきなり太田先生に「私にも教えてください!」と直に申し込んでしまいました。ちなみに、月謝は1000円でした。
 個人レッスンを受けはじめてから、私は放課後も日曜日もなく講堂に通いました。何だか毎日ず〜っと制服を着てたように思います。
 家にはピアノが無く、練習するには学校のピアノを弾くしかなかったのです。日曜日は守衛さんにお願いして、講堂のカギを開けてもらっていました。
 我が家にピアノがやって来たのはもう高校生になっていた頃ですが、月賦で買っていたので月賦代が払えず、ピアノが引き上げられる、という経験を一度ならずしたものです。