vol 2「元医者の隠居はんとこのお嬢さん」

大北家はもともと医者の家系でした。家には応診のときに乗るためのカゴがありました。
父親の姉は婚礼の際に、このカゴに乗って行ったそうです。
田舎のコトですから、近所どうしお互いの家を屋号で呼びあっていたのですが、大北家は「元医者の隠居」と呼ばれていました。私は「元医者の隠居はんトコの“おとうはん”(お嬢様)」。

近所のおばさんたちは、この「おとうはん」に食べられる野草の知識をたくさん授けてくれました。ヨモギやセリの生えているすぐそばには、彼らを守るために、毒ヨモギや毒ゼリが必ず生えている。毒のある方がわずかに背が高いので、注意深く見分けないといけない。
また、池の水面を埋め尽くすように浮かんでいるヒシの実を割ると、白い果肉が食べられるんです。このことを教えてくれたのも、近所のおばさんたちだったと思います。

私が6歳のときのことです。家の裏手に用水池があり、友だちと遊んでいた私は、「これ、食べれるねんで」と池に身を乗り出し、ヒシの実をたぐり寄せようとしました。そのとき、足を滑らせた私はそのまま池にハマり込んでしまいました。
ちょうど近所でお弔いがあって、母は弔問に行っていました。友だちが駆けて行って「ナリコが池にハマった!」と知らせてくれたのです。母と近所の人たちが駆けつけたとき、私は水面から浮いたり沈んだりしていました。母はいきなり喪服のまま池に飛び込んで、私を抱きかかえると、立ち泳ぎで岸まで運んでくれたのでした。池に浮いてる水草の実を食べるなんて、とんだお嬢様もあったもんです.

戦地から帰ってきた父親からは、軍隊での苦労話をずいぶん聞かされました。
北支(中国東北部)にいた父親が配属された部隊の上官は、関東地方の出身。報告に大阪弁が混じると「ふざけるな!」と殴られる。同じ部隊には東北・福島県出身の人がいて、この人は東北訛りでボソボソと話すので、「何を言ってるか分からん!」と殴られていたそうです。二人はお互いに身の不遇を嘆きあっていましたが、その同僚のズーズー弁は確かに聞きづらく、父親も苦労したとか。

当時の軍歌で「北支派遣軍の歌」というのがあり、父は何かにつけて口ずさんでいました。
歌のラストは「厳たり北支派遣軍♪」というのですが、小さかった私は「ゲンタリ」って何やろか?と思っていました。父の歌で覚えているのは「北支派遣軍の歌」のほか、「ラバウル小唄」「異国の丘」などでした。

ある日、我が家に電気蓄音機がやって来て、ダンスミュージックのレコードが揃い始めました。母はひとり娘でお嬢様として甘やかされたらしく、娘時分には結構羽を延ばしていたようです。尼崎にあった大きなダンスホールに入りびたっていたそうです。大正モダンガールだったんですね。その母のリードで、父と母が家でダンスの練習を始めました。私が床についてから、レコードをかけて踊っていたのです。夜中にふと目が覚めて、フスマを少し開けて覗いてみると、父と母は抱き合うように踊っていました。「見てはいけないものを見てしまった」ような気がして、そっとまたフスマを閉めたのを覚えています。